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タグリッソ特許紛争、実施可能要件が覆した1億ドルの陪審評決
弁理士 宋在成

2026年7月9日に米国連邦巡回区控訴裁判所(U.S. Court of Appeals for the Federal Circuit、以下、「CAFC」という。)は、ファイザー(Pfizer)の子会社であるワイス(Wyeth)とアストラゼネカ(AstraZeneca)との間の抗がん剤の特許紛争においてアストラゼネカを支持した。

本事件は、アストラゼネカの代表的な肺がん治療剤であるタグリッソ(Tagrisso、成分名はオシメルチニブ(osimertinib))がワイスの特許を侵害するか否かが問題となった事件である。2024年に陪審員団はアストラゼネカの特許侵害を認めたうえで、約1億750万ドルの損害賠償額を評決したが、その後、連邦地方裁判所は、当該特許が米国特許法上の実施可能要件(enablement)を満たさないという理由により陪審評決を覆した。CAFCもまた2026年7月9日にその判断を維持した。

タグリッソは、アストラゼネカの核心の抗がん剤である。したがって、本事件は単なるグローバル製薬会社間の特許紛争を越えて、広範囲に設定された医薬特許がどの程度まで明細書により裏付けられるべきかを示す事例である点に注目する必要がある。

1. 事件の経過

本事件で問題となった特許は、ワイスが保有する米国特許US10,603,314およびUS10,596,162である。これらの特許は、ゲフィチニブ(gefitinib)および/またはエルロチニブ(erlotinib)に耐性を表す非小細胞肺がん(NSCLC)を不可逆的EGFR阻害剤(irreversible EGFR inhibitor)を用いて治療する方法に関するものである。

ワイスは、2021年にタグリッソがこれらの特許を侵害すると主張しつつ、アストラゼネカを相手取って米国のデラウェア州連邦地方裁判所に特許侵害訴訟を提起した。

2024年に陪審員団はワイスの特許が有効であり、アストラゼネカがそれを侵害したと判断したうえで、約1億750万ドルの損害賠償額を認めた。

しかし、アストラゼネカが陪審評決後に申請した法律問題としての判決(Judgment as a Matter of Law、JMOL)において、連邦地方裁判所は、ワイスの特許が実施可能要件を満たすことができず無効であると判断した。これにより、約1億750万ドルの陪審評決も効力を失った。

ワイスがこれに対して不服とし、CAFCに控訴したが、CAFCは2026年7月9日に連邦地方裁判所の判断を維持した。

時期

主な経過

2021年

ワイス(Wyeth)がアストラゼネカ(AstraZeneca)を相手取って特許侵害訴訟を提起

2024年5月

陪審員団が特許侵害を認めて約1億750万ドルの損害賠償を評決

2024年8月

連邦地方裁判所が実施可能要件の欠陥を理由として特許無効と判断

2026年7月9日

CAFCが連邦地方裁判所の判断を維持

2. CAFCの判断 - 広範囲な請求の範囲と実施可能要件

本事件の核心争点は、米国特許法35 U.S.C.§112(a)による実施可能要件(enablement)であった。米国特許法上で明細書は、当業者が過度な実験(undue experimentation)なしに請求された発明の全体範囲を実施することができる程度に発明を開示しなければならない。特に米連邦最高裁判所は、2023年にAmgen Inc. v. Sanofi判決により請求の範囲が広いほどその全体範囲に相応する実施可能な開示が求められるという原則を再確認した。

ワイスの特許は、特定の化合物に限定されずに、EGFRの特定のシステイン(cysteine)残基に共有結合する不可逆的EGFR阻害剤を幅広く内包していた。しかし、明細書で具体的に提示された化合物はEKB-569、HKI-272およびHKI-357など、一部に過ぎなかった。

特に、CAFCは、明細書に主に試験管内(in vitro)実験結果が記載されているに過ぎず、請求項で求める患者に対する実際「unit dosage(単位容量)」の具体的な実施例がないという点を重く見た。明細書には広い投与量の範囲が記載されていたが、各化合物に対してどのような容量を選択するべきか、またはin vitro結果から実際の患者の治療容量をいかに導き出すべきか、に関する十分な指針が不足すると判断した。

そこで、CAFCは、当業者が請求の範囲に含まれる多様な不可逆的EGFR阻害剤に対して有効な投与量を決定するためには相当な試行錯誤が必要となるため、請求された発明の全体範囲が実施可能に記載されたと認めることができないと判断した。

ただし、本判決が医薬用途特許に実際の臨床試験データが必ずしも必要であるという意味ではない。CAFCも実際の臨床データがない治療方法特許が当然に実施可能要件を違反するわけではないとみなした。結局、問題は、請求の範囲の広さに相応する十分な実施例と技術的指針とが明細書に存在するか否かである。

3. 示唆点

本事件は、医薬・バイオ分野において広い特許権の確保と明細書の実施の可能性との均衡が重要であるという点を示している。

医薬発明では将来の競争物質まで含ませるために特定の化合物に限定せずに作用機序や機能を利用して請求の範囲を広く設定することが多い。しかし、請求の範囲を広く設定するほど当該範囲全体にかけて発明を実施することができるという点を裏付ける実施例と技術的説明も共に求められる可能性が高い。

特に、新薬開発の初期段階では臨床試験データが十分に確保されていない状態で特許出願が行われることが多い。したがって、実際の患者の治療方法を請求したうえでin vitroデータのみが確保されている場合には、動物試験の結果、容量-反応の関係、代表化合物別の投与範囲または投与量の決定基準など、in vitroの結果と実際の治療方法を連結することができる技術的根拠を可能な範囲内で明細書に含めることが重要である。

また、広い機能的請求項のみを確保するよりは、代表的な化合物に対する狭い請求項、一定の化合物群に対する中間範囲の請求項、および機能的特徴による広い請求項を段階的に構成する特許ポートフォリオ戦略も考慮する必要がある。

また、本事件では陪審員団が特許侵害と約1億750万ドルの損害賠償まで認めたにも拘らず、その後、特許自体が無効と判断されて結果は完全に覆った。これは、特許侵害訴訟またはFTO(freedom to operate)分析において、競争会社の製品が特許の権利範囲に含まれるか否かだけでなく、当該特許が新規性・進歩性・実施可能要件などの無効攻撃にも生き残れるか否かについても共に検討する必要があることを示している。

結局、今回のWyeth v. AstraZeneca判決は、医薬特許においては広い請求の範囲を確保することと同様に、その範囲を裏付ける十分な技術的開示を確保することが重要であるという点を再確認した事例である。

・関連資料

1. U.S. Court of Appeals for the Federal Circuit, Wyeth LLC v. AstraZeneca Pharmaceuticals LP, No. 2024-2325 (Fed. Cir. July 9, 2026).
2. Reuters, “US appeals court upholds win for AstraZeneca in Pfizer cancer drug patent fight,” July 9, 2026.
3. Reuters, “AstraZeneca gets $107 mln Pfizer verdict overturned in US cancer drug patent fight,” Aug. 14, 2024.
4. Reuters, “Pfizer wins $107.5 million from AstraZeneca in US cancer drug patent trial,” May 17, 2024.