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【事件の概要】
本事件は「バルサルタンとサクビトリルを含む超分子複合体」に関する特許(特許第1549318号)に対する無効審判および訴訟に関する。特許審判院は、訂正を通じた進歩性は認めたが、容易実施要件を認めることができないとの理由により登録無効審決を下した。その後、特許法院も同じ論理により登録無効を判決し、大法院も原審の判断に法理誤解がないとして原告の上告を棄却した事件である。
【化学発明における明細書の記載要件(容易実施要件)の判断基準】
1. 明細書の記載要件-容易実施要件(特許法第42条第3項第1号)
特許法第42条第3項第1号は、発明の詳細な説明を通常の技術者がその発明を容易に実施することができるように明確かつ詳細に記載することを規定している。
これは、特許出願された発明の内容を当該技術分野の第三者が明細書のみで容易に理解することができるように公開し、特許権として保護を受けようとする技術的内容と範囲を明確にするためである。
2. 容易実施要件の判断基準
1) 一般的な判断基準
容易実施要件の一般的な判断基準は、通常の技術者が出願時の技術水準に照らし、過度な実験や特殊な知識を付加しなくても明細書の記載により当該発明を正確に理解することができ、同時に再現することができる程度を意味する(大法院2003フ2072判決(2006.11.24.言渡)、大法院2021フ10886判決(2024.10.8.言渡)など参照)。
2) 化学発明の判断基準
いわゆる実験の科学と呼ばれる化学発明の場合、発明の内容と技術水準に照らして予測の可能性や実現の可能性が顕著に不足して実験データが提示された実験例が記載されていなければ、通常の技術者がその発明の効果を明確に理解し、容易に再現できるとみなすことが困難であるということが判例の立場である(大法院2001フ65判決(2001.11.30.言渡)など参照) 。
【事実関係の整理および法理の適用】
1. 事実関係
本事件特許の第1項発明は、製薬用活性剤である「バルサルタン」と「サクビトリル」がナトリウム陽イオン、水分子と非共有相互作用を通じて会合した固体形態の超分子複合体に関するものである。しかし、明細書には請求の範囲から除外された「結晶質形態の2.5水和物超分子複合体」に関する実験例や形態に関する記載のみがあり、まさに第1項で権利範囲として請求している「その他の多様な固体形態(結晶質、部分結晶質、無定形など)」に関する具体的な実施例が存在しなかった。
2. 法理の適用-容易実施要件の充足の有無(消極)
大法院は、本事件特許発明が容易実施要件を充足していないと判断した。大法院がこのように判断した理由を以下のとおり要約する。
1) 実験例の不在、形成原理およびデータの不備
本事件特許の明細書には請求の範囲から除外された「2.5水和物超分子複合体」や他のプロドラッグ形態に関する実験例のみ記載されており、まさに第1項発明で権利として請求している(2.5水和物を除外した)他の形態の超分子複合体に関する具体的な実施例は明示されていない。
また、明細書にはバルサルタンとサクビトリルが超分子複合体を形成する原理が記載されておらず、構成要素間の非共有相互作用を説明できる技術的内容も不足している。
2) 予測の可能性の不足
2.5水和物超分子複合体は、特定の比率(1:1:3:2.5)で会合した化学量論的水和物である。通常の技術者としては水分子の個数が異なったり水分子がない場合にも依然として安定した超分子複合体が形成され得るのか、形成されるとしたら、いかなる構造であるのか予測し難い。
3) 再現の困難性
通常の技術者が優先権主張日の当時はもちろん、弁論終結時までの技術水準を考慮しても、明細書の記載のみではいかなる化学物質が超分子複合体を形成し得るのか確認し難い。したがって、過度な実験や特殊な知識の付加がなければ、第1項発明の化合物を正確に理解し、再現できるとみなし難い。
3. 小結
大法院は、本事件第1項発明とこれを引用する従属項(第3項~第11項)発明の全ては、特許法第42条第3項第1号で定めた明細書の記載要件(容易実施要件)を満たしていないと説示し、これを理由として特許を無効とした原審の判断を確定した。
【判決の意義】
本判決は、化学発明における「容易実施要件」の重要性を改めて確認した事例である。特に、出願人が権利として確保しようとする範囲が広範囲であるものの、明細書に提示された具体的な実施例や理論的裏付けがこれに至らない場合、通常の技術者が過度な試行錯誤なしに発明を再現することができないと判断した。これは単に理論的可能性のみでは不足し、請求項に記載された物質に対しても実質的なデータや形成原理に関する明確な説明が必須であることを明確にした。
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